丹念に書かれた恐ろしいほどの傑作だと思う。あらすじ紹介は他の方々に任せて、わたし自身の感想を述べたい。客観的リアリズムというのか写実主義というのか、軽快なテンポで、筋がどんどん進んでいく。決して退屈しない(もちろん難しい箇所には立ち止まるこもあるし、人名や地名確認のためには本文をさかのぼる必要も生ずるが)。最後まで著者の筆力は緩まなかった。下巻の後半、ふと残りページを調べると、エンマの生活は愛とお金の両面ですでに破綻しかかっているのに、まだ百ページはある。いったい著者はこれからどんなことを書いているのかと思いながら読んでいくと、端役に至るまできっちりケリがつけられていた。
特に身につまされた箇所を抜き書きする。
なるほど借金を計算してみることもたまにはあった。しかし、事があまり仰山なので信じられなかった。でまた計算をし直すが、すぐこんぐらかってしまうので、そのままうっちゃって考えぬことにした。(p.230)(※もはや借金の額が計算できないほど追い込まれてしまったエンマ。私の知人が投資信託に手を出して大損した。しかし、証券会社はしばしば回転売買を勧め、それに乗ってしまったので、正確な損害額が計算できないとのことである)
「へへん、奥さんのようにちょいちょい心やすい男の方があれば……」
射貫くようなおそろしい眼でじっと見つめた。エンマは腸(はらわた)のなかまでふるえあがった。(p.241)(※大胆なエンマも我に返った瞬間には恐怖心を抱いたのだ)
想像するに、フローベールは恋にも借金にも途方もなく苦しんだ人のようである。
全般に、しゃれた表現も頻出し、ユーモアを感じさせる箇所も多い。例を一つだけ。薬剤師と司祭が言い争っている場面で、エンマの夫ボヴァリー先生もそばにいる。
薬剤師「とにかくですな、この文明開化の現代に、精神的娯楽を禁じようと、いまだに頑張っている人があるとは驚きますね。この娯楽は無害どころか教訓的で、ときによると、衛生上大いによいことさえある。ねえ、ボヴァリー先生」
「なるほど」医者は同意見ではあるが双方の気を悪くしてはと思ったのか、それとも全然意見がないのか、とにかく無造作にそう答えた。(pp.113-4)
だが、注文はある。この作品と違って、終わりに向かって一直線に進んでいかないのが、現代の文学ではないか。この作品は、全能の立場の著者があまりにも見事に描き切っているけれども、登場人物がそれぞれ著者にさえ分からない面を持ち合わせているという視点も考えられよう。私にとって、その最大の例が、エンマの夫シャルル・ボヴァリー医師である。彼は、終始一貫エンマを信じ切った愚直な男として描かれているが、はたしてこのような人は存在するであろうか。以下は、エンマが別の男に夢中だったという証拠を見つけたときのシャルルの態度である。
もっともシャルルは物ごとを深く掘り下げて考える性質の男ではなかった。彼は証拠の前に尻込みした。彼のあやふやな嫉妬は、果てもない悲哀のなかに影を没した。(p.324)
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ボヴァリー夫人 下 (岩波文庫 赤 538-2) 文庫 – 1960/11/25
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- ISBN-104003253825
- ISBN-13978-4003253823
- 出版社岩波書店
- 発売日1960/11/25
- 言語日本語
- 本の長さ346ページ
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1960/11/25)
- 発売日 : 1960/11/25
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 346ページ
- ISBN-10 : 4003253825
- ISBN-13 : 978-4003253823
- Amazon 売れ筋ランキング: - 507,841位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 776位フランス文学 (本)
- - 3,080位岩波文庫
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上位レビュー、対象国: 日本
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2013年10月21日に日本でレビュー済み
19世紀フランスの小説家ギュスターヴ・フローベール(1821-1880)の代表作、1857年。スタンダール、バルザック、ユーゴー、デュマ・ペールに続く世代に属する。フローベール個人にはロマン主義的な面があったようだが、執筆に於いては当時の実証主義的思潮の中で、作者の主観を排し客観的に事象を描写することに徹し、その文体は写実主義・自然主義としてモーパッサン、ゾラらに受け継がれていく。
物語の筋自体は、女が凡庸な夫に幻滅し不倫によって破滅する、という単純なものだ。しかし女、ボヴァリー夫人は何に陥ってしまったのか。それは、近代という時代精神にあって、人間に則ち世界に穿たれた底無しの深淵、虚無それ自体をも飲み込んでしまう虚無、人間の人間喪失・世界の世界喪失ではないか、それを見出してしまったことに対する絶望ではないか。本作は、近代が必然的に到り着くしかないニヒリズムが見出してしまった人間存在の云わば「被投性」を初めて描いた、精神史を画する作品ではないか――そのとき人間存在は、ついに「実存」にまで切り詰められた自己を発見することになる――。その意味で、現代に於いてなお最も空恐ろしい小説の一つであるといえる。それは、縁の無い穴を描くという、奇怪な不可能事である。
□
ボヴァリー夫人が思い描き、ときに縋り付く夢や憧れは、現実の中で不可避的に幻滅を呼び起こし、破れていく。凡庸さへの退屈と倦怠だけが弛緩して続いていく日常性への鈍痛の如き絶望、生と世界とが続いていく限り決して終わることの無い絶望、その鈍重さ。
「でも、でも自分は幸福ではない、ついぞ幸福だったためしがない。人生のこの物足りなさはいったいどこからくるのだろう。そして自分のよりかかるものが立ちどころにくされ潰えてしまうのはなぜだろう?・・・・・・しかし、この世のどこかに、強く美しい人がいるものなら、熱と風雅にみちみちた頼もしい気だて、天使の姿にやどる詩人の心、み空に向って哀しい祝婚の曲を奏でる青銅絃の竪琴にも似たこころがあるものなら、ふとめぐり会われぬことがどうしてあろう? いや、かなわぬことだ! しかも求めて甲斐あるものは一つとしてない。すべては虚偽だ! あらゆる微笑には倦怠のあくびが、あらゆる喜びには呪詛の声が、あらゆる快楽には快楽の嫌悪が隠れている。そして至上の接吻すら、さらに高い逸楽への、かなわぬ望みを唇に残すばかりである」
「新しいものの魅力は着物のように次第に脱げ落ちて、形も言葉もついに変わらぬ情欲の永劫の単調さをあらわした」
『紋切型辞典』なる極めて現代的な感性に訴求する奇書を物したフローベールの裡には、世界が即物と凡庸な定型句以上ではないという、「事実性」に対する深い倦怠と諦念がある。フローベール自身の発した「ボヴァリー夫人は私だ」という有名な言葉にも、それが表れている。いまやロマン的な美的官能は、その一切を虚無――そこでは、あらゆる美的感性が無化される――に帰してしまう幻滅と表裏一体である。ロマネスクな憧憬は予め挫かれ断念される以外ではなくなってしまっている。何も到来することが無くなってしまった生=日常=世界、何かを「待つ」ということ自体が出来なくなってしまった生=日常=世界、全てが紋切型のクリシェ以上ではなくなってしまった生=日常=世界。そこにただ投げ出されただけの現存在、その茫漠とした憂鬱。
生と世界があらゆるロマン的憧憬を幻滅によって挫けさせてしまう即物的な「日常」でしか在り得ない、そんな精神史上の局面に人間は到ってしまっている。そしてそのことを当の人間が憂鬱な鈍痛とともに知ってしまっている。
「しかし心の底ではことを待ち望んでいた。難破した水夫のように、彼女は生活の孤独の上に絶望の眼をやり、はるか水平線の濃霧の中に白帆の影を探し求めた。この偶然はなんであるか、この偶然を自分のほうへ吹きつける風はなんであるか、それはどこの岸へ連れて行ってくれるのか、それは小蒸気なのか三層甲板の巨船なのか、舷門にあふれるほど満載しているのは苦悩かそれとも幸福か、彼女は知らなかった。しかし毎朝眼を覚ますと、今日じゅうにはきっとそれがやってきそうに思われた。そしてあらゆる物音に耳を澄まし、はね起きては、それがこないのに驚いた。やがて日暮れになるといよいよわびしくて明日の日を待った」
「待つ」という美的態度が予め不可能である以外にない日常で、世界は埋め立てられている。
□
「いまこのとき、フランスの多くの村々で、ボヴァリー夫人は泣いている・・・・・・」フローベールのこの言は、いまや時代精神そのものにまで広がった普遍性を帯びている。
(上巻と同じ文章)
物語の筋自体は、女が凡庸な夫に幻滅し不倫によって破滅する、という単純なものだ。しかし女、ボヴァリー夫人は何に陥ってしまったのか。それは、近代という時代精神にあって、人間に則ち世界に穿たれた底無しの深淵、虚無それ自体をも飲み込んでしまう虚無、人間の人間喪失・世界の世界喪失ではないか、それを見出してしまったことに対する絶望ではないか。本作は、近代が必然的に到り着くしかないニヒリズムが見出してしまった人間存在の云わば「被投性」を初めて描いた、精神史を画する作品ではないか――そのとき人間存在は、ついに「実存」にまで切り詰められた自己を発見することになる――。その意味で、現代に於いてなお最も空恐ろしい小説の一つであるといえる。それは、縁の無い穴を描くという、奇怪な不可能事である。
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ボヴァリー夫人が思い描き、ときに縋り付く夢や憧れは、現実の中で不可避的に幻滅を呼び起こし、破れていく。凡庸さへの退屈と倦怠だけが弛緩して続いていく日常性への鈍痛の如き絶望、生と世界とが続いていく限り決して終わることの無い絶望、その鈍重さ。
「でも、でも自分は幸福ではない、ついぞ幸福だったためしがない。人生のこの物足りなさはいったいどこからくるのだろう。そして自分のよりかかるものが立ちどころにくされ潰えてしまうのはなぜだろう?・・・・・・しかし、この世のどこかに、強く美しい人がいるものなら、熱と風雅にみちみちた頼もしい気だて、天使の姿にやどる詩人の心、み空に向って哀しい祝婚の曲を奏でる青銅絃の竪琴にも似たこころがあるものなら、ふとめぐり会われぬことがどうしてあろう? いや、かなわぬことだ! しかも求めて甲斐あるものは一つとしてない。すべては虚偽だ! あらゆる微笑には倦怠のあくびが、あらゆる喜びには呪詛の声が、あらゆる快楽には快楽の嫌悪が隠れている。そして至上の接吻すら、さらに高い逸楽への、かなわぬ望みを唇に残すばかりである」
「新しいものの魅力は着物のように次第に脱げ落ちて、形も言葉もついに変わらぬ情欲の永劫の単調さをあらわした」
『紋切型辞典』なる極めて現代的な感性に訴求する奇書を物したフローベールの裡には、世界が即物と凡庸な定型句以上ではないという、「事実性」に対する深い倦怠と諦念がある。フローベール自身の発した「ボヴァリー夫人は私だ」という有名な言葉にも、それが表れている。いまやロマン的な美的官能は、その一切を虚無――そこでは、あらゆる美的感性が無化される――に帰してしまう幻滅と表裏一体である。ロマネスクな憧憬は予め挫かれ断念される以外ではなくなってしまっている。何も到来することが無くなってしまった生=日常=世界、何かを「待つ」ということ自体が出来なくなってしまった生=日常=世界、全てが紋切型のクリシェ以上ではなくなってしまった生=日常=世界。そこにただ投げ出されただけの現存在、その茫漠とした憂鬱。
生と世界があらゆるロマン的憧憬を幻滅によって挫けさせてしまう即物的な「日常」でしか在り得ない、そんな精神史上の局面に人間は到ってしまっている。そしてそのことを当の人間が憂鬱な鈍痛とともに知ってしまっている。
「しかし心の底ではことを待ち望んでいた。難破した水夫のように、彼女は生活の孤独の上に絶望の眼をやり、はるか水平線の濃霧の中に白帆の影を探し求めた。この偶然はなんであるか、この偶然を自分のほうへ吹きつける風はなんであるか、それはどこの岸へ連れて行ってくれるのか、それは小蒸気なのか三層甲板の巨船なのか、舷門にあふれるほど満載しているのは苦悩かそれとも幸福か、彼女は知らなかった。しかし毎朝眼を覚ますと、今日じゅうにはきっとそれがやってきそうに思われた。そしてあらゆる物音に耳を澄まし、はね起きては、それがこないのに驚いた。やがて日暮れになるといよいよわびしくて明日の日を待った」
「待つ」という美的態度が予め不可能である以外にない日常で、世界は埋め立てられている。
□
「いまこのとき、フランスの多くの村々で、ボヴァリー夫人は泣いている・・・・・・」フローベールのこの言は、いまや時代精神そのものにまで広がった普遍性を帯びている。
(上巻と同じ文章)